被る −かぶる−











  1  

 汗だくになって伊藤 伸昭イトウ ノブアキ)は営業所に戻ってきた。
 そして帰ってきた伊藤がまずしたことは、守衛室で社員の出勤状態を示すネームカードを確認することだった。
 目当ての恋人の名前を見る。それは裏返しになっていた。
 またもや先に帰られてしまった。今日も伊藤は避けられているようだ。
 どうやら恋人は自分の顔を極力見たくないらしい。
 残っていてくれれば守衛室から電話をして呼び出そうと思っていたのだが、いないのなら仕方ない。伊藤は通路からまっすぐに建物の中へ入っていった。
 終業時間が過ぎているのでフロア全体が閑散として薄暗い。
 そして廊下は冷房がほどよく効いていて吹き出した汗が一気に冷えてきた。
 暑い外からすればここは別世界のようだ。
 ネクタイを緩めながら営業室の前まで辿りついた時、伊藤はふと後ろを振り返った。
 廊下に見慣れない男がいたのが気になったのだ。
 コピーをかけている所を見ると社員なのだろうが…
 誰だ、こいつ。
 その見かけない男が顔を上げる。
 そして伊藤に気がついて声をかけてきた。
「伊藤さん、お疲れ様です」
 それを合図にして営業室の中にいる他の人間も伊藤に気がついたようだ。
 『お疲れ』の声が部屋の方々から 入り口の伊藤へ飛ぶ。
 伊藤は片手をあげて挨拶を返すと、コピー機のほうへ踵を廻らせて近寄っていった。
「滝口…おまえ、眼鏡替えたのか」
「はい。伊藤さんの真似してみました。どうですか」
「…まぁ、そうだな。悪くないんじゃないか」
 見慣れないと思った男は新人二年目の滝口だった。
 眼鏡を替えるだけで印象はこうも変わるものなのか。
 今までぼさっとした印象が強かったのだが、眼鏡ひとつで印象が引き締まってみえた。
「仕事だけでなく色々と伊藤さんをお手本にさせていただこうと思って。よろしくお願いします」
 新人滝口の営業については伊藤が指導していた。
 他の人より近い関係にならなければならないというのに、伊藤にとって いまだに眼鏡ごときで顔がわからなくなる程度の相手でしかなかった。
 だいたい新人担当は二度とやりたくないと断ってきたのだ。
 それを期待の新人には伊藤が適任とおだてあげられてごり押しされたのだった。
 会社の方針として、入りたてのひよこ新人を担当するのは入社三年めだが、二年目の新人の外回り教育担当ともなると中堅社員が荷う決まりになっている。
 自分の仕事をこなしながら他人の面倒をみるといのは苦労を背負い込むのと一緒だ。
 しかもそれは一度やればお役ゴメンというわけでもない。それほど人材は豊富ではない。
 ほとんどの者が何とか任務を逃れようと足掻くのだが、所詮は上司の命令を断れるわけがなかった。
 しかも伊藤の経験した新人教育一度目というのは、社の方針から大きくずれて伊藤新人の時のことだった。厳密に言えばそれは職務というより自発的なボランィアのようなものだったかもしれない。自分だって新人だったくせに同期を叩き上げたのだから。
 なぜそんなことになったかというと、その同期の事務能力におけるあまりの出来の悪さに当時の担当指導員がサジを投げたからだった。しかも指導員の職務放棄と他にはすぐにわからない程度に。
 見るに見かねてその同期に軌道修正の指導をしてやったのが新人時代の伊藤である。新人が新人の面倒を見るという異例事態を有無を言わせずに周囲に納得させた伊藤の苦労の甲斐があって、今やその同期も営業成績では結構な数字をはじき出すまでに成長している。しかしそうなるまで伊藤の費やした時間と苦労は筆舌に尽しがたいものがあった。
 それは同期本人の能力がどうこうというより、同僚や上司とのクッション役が殆どだったのだが――――これが苦労の連続だったのだ。
 だから二度と他人の面倒など見たくないと、今まで新人教育担当になるのを固辞してきたのだった。
 しかしとうとう今年は逃げ切れなかった。
 なにしろ、戦力外と誰もが思い込んでいた者を育てあげた功労者と、新しい部長に過大評価に買われてしまっていたのだ。 
「随分あるな、コピー」
「はぁ、こんなのばっかりで、ぼくはコピーマシーンでしょうか…まぁ新人ですし。それに何をやっても新人時代の有藤アリフジ)さんと比べらちゃって、もう仕方ないですね」
 伊藤の同期である伝説の男 有藤 吉成アリフジ ヨシナリ)のその新人当初、あまりの使えなさに頼める仕事がコピーしかなかったというのは有名な話である。
 これを聞くと皆笑うのだが、しかしそれは実はカラッとした笑い話ではないのだった。
 どういう事情があるかはわからないが、当時の部長は有藤自身から辞めたいと言わせたかったらしい。膨大な量のコピー取りしか有藤に仕事を預けなかったのである。
 コピーしか出来る仕事がないという扱いは精神的にきついものがある。しかも連日延々と就業時間中コピーをやり続けるというのは、実際やってみると辛い作業だ。
 だがそんな陰険で苛めの境界線に触れるような仕事を淡々とこなして見せた有藤という男は、今思えばやはり大物だったのだろう。
 伊藤が何だかんだと理由をつけてコピー取りの内勤から引っ張り出し、有藤は外回りでようやく奇天烈な発想をいい方向に発揮できたのだ。有藤だって決して出来ないわけでも頭が悪いわけでもない。良くも悪くもマイペースの変わり者だったということなのだろう。しみじみと伊藤は有藤のマイペースぶりを思う。
 そして、そういった過去の有藤の武勇伝のあれこれを基準に新人の技量を測ってしまうのは、この営業所の儀式のようなものなのだった。
 それほど強烈な印象だったということなのだろうが、悪しき習慣でもある。
 苛めの域に差し掛かっていた例のコピー取り一つ取っても、『アノ出来の悪かった有藤くんでもこのくらいのことはしていた』だの、『あれだけ出来の悪かったのがああなるんだから そこそこ出来る君はゆくゆくはあれ以上にならないと』、だのと云々比較され続けてしまう。
 大抵の新人は、とんでもない事例と日常的に比較され、それ以下だと言わんばかりの評価を受ければへこんでしまう。
 しかし実際はいつまでも新人と比べられてしまう5年目中堅社員有藤のほうに、かなりの問題があるだけなのだと伊藤は思っている。
 そしてやはりこの滝口も真面目に悩んでいるらしい。気の毒に。
 だが、一度自分を否定されて、その結果自分を見直してみることで飛躍できることがあるというのも事実である。
 ただ落ち込んだだけで終わりか、そこから何かを得るかは個人の資質次第だが。
「有藤と比べられるって?それは気の毒にな。あれとは比較にならないほど優秀だってのに」
 だが伊藤は叱咤する代わりに優しく励ました。
 そのほうが遥かに伊藤の負担にならないので。
 今の伊藤のように口先だけで励ますのは見かけは優しいが、その実あまり相手の実にはならない。伊藤だってそこはわかっている。
 恨まれても厳しいことを言ってやるのが教育係の仕事なのだろうが、伊藤にそんな情熱は残っていなかった。有藤に注ぎ込んで空である。
「あ、ありがとうございます。そう言っていただけると俄然やる気が出ます」
 しかし言われた本人はそう言って喜んでいた。
 きっとこれでいいんだろう。ケースバイケースというものなのかもしれない。
 有藤の時は伊藤も本気でぶつかっていった。時には罵倒の限りを尽した。
 結果それがお互いに切磋琢磨されることになったのだ。
 その体験に比べればかなり生ぬるいのだが、これはこれでいいのだろう。
「あのバカと比べられても気にすることないんだぞ」
 つい有藤のことは昔からの癖でこきおろしてしまう伊藤だった。
「はぁ…でも今の有藤さんは、ぼくから見るともう理解不能の方で…。あれでどうして成績がいいのか、ぼくには理解できないんです」
「理解しなくていい。あれは神秘の地球外生命体なんだ。周りの苦労が絶えないから真似もしないでくれよ。普通にやってればおまえなら大丈夫だから」
「でも、どうしてああいう人のほうが評価されるんでしょうか」
 今の営業所は有藤の影響を色濃く受けてかなり意識が変わっていた。
 有藤で免疫がついたので少々のことは許される雰囲気である。
 かなりの癖ある行動が個性として普通に受け入れられるのだ。数字を取るという前提だが。
 要するに成績を伸ばすのなら宇宙人でも何でもかまわないということだ。
 それは、いくらマトモな人間でも数字が取れなければだめだということでもある。
 こういう場所は滝口のように四角四面な、悪く言えば没個性的なタイプにとって居心地が悪いものなのだろうか。
「まぁ、つきあってみれば悪い連中じゃないから、よろしく頼むよ」
「はぁ…でも、とにかくぼくは伊藤さんを手本にさせていただきます」
 伊藤と有藤は同じ営業職の成績で首位争いをしているが、営業スタイルでは両極に位置している。
 いわゆる普通の、というか正統派営業マンの、折り目正しく、弁舌さわやかな所作を手本にするということだろうか。
 それで手始めに眼鏡を自分と同じにしたのか?
 伊藤は薄く笑った。
 滝口という男は言われたことは器用にこなすし、手本があればその通りにやってみせる。
 しかしそれだけでは物足りないと感じてしまうのはなぜだろう。
 願わくばもう少し個性があってもいいと伊藤は思っていた。
 だがそれは口にしない。
 まだ入社してようやく一年ちょっとなのだ。
「女の子も残ってるようだし、彼女たちも誘って、これから一杯どうだ」
「あ、すいません。せっかく誘っていただいたのに、今日はちょっと別にありまして…」
 恐縮しまくって滝口が頭を下げている。
「いいんだよ。じゃ、今度な」





 突然の誘いに乗って居酒屋へなだれ込んだのは、結局同期同士である女子の小宮と伊藤の二人だけだった。
 多分この暑さで 飲んでられない と断られたのだろう。そう考えるのもわかる暑さだった。
「しっかし暑いなァ。いっくら飲んでも汗になるだけで、ちっとも酔えないんですけど」
 小宮がぼやく。
「酔えないな。まったく酒代がもったいない」
 伊藤も小宮の言葉に頷いた。
「あたしお腹一杯になってきちゃったよ」
 水代わりにかなりの量のビールを喉に流して満腹になってしまったらしい。
 小宮はテーブルに並べられたツマミを箸でつつきながら頬杖をついた。
「ねぇ、こんな暑いのって今まであったっけ」
 うんざり、といった感の小宮だが、伊藤は夏は暑くて当たり前と思っている。
「俺の田舎は盆地だからま、夏はいつもこのくらい暑いよ」
「ええ?田舎ってどこだっけ?」
「東北」
 小宮は伊藤に向けて箸を振って見せた。行儀の悪さに伊藤は密かに眉を顰める。
「うっそぅ、そうだっけ。何か信じられないなぁ。それじゃ小さい頃虫取りとかして遊んだんだ、伊藤くんが」
「虫取りって、そんなわざわざしないけどな」
「やっぱりしなかったのね。虫取りしている伊藤くんなんて想像できないもん」
 小宮が箸で小鉢を寄せるのが目に入る。
 女性の割りにさっぱりして男気のある気質の反面、仕草に優雅さの欠片も無いのが珠に傷だと伊藤は思う。
 自分の恋人と比べてしまうのはこういうときだ。
 気取っているわけでもないのに、伊藤の恋人は食べる仕草もきれいだ。大食漢だというのに。
「そうじゃなくて、虫捕りなんてわざわざしなくてもそこらにたくさん普通にいるんだよ」
「え?じゃぁセミとか捕まえたりしたの?カブトムシ取ったり?」
 なんだ小宮の奴今日はやけにしつこいな。
 やっぱり酔ってるな、そう思いつつ伊藤は答える。
「わざわざ取らなくてもセミなんか一杯落ちてたよ」
「ええ〜だってそれ死んでるんでしょう?」
「生きて落ちてるの」
「ナニそれ」
「暑いところだって言っただろ。あまりの暑さに止まってる木からセミが落ちるのさ」
「やっだぁ。うっそだ〜〜〜」
 小宮が笑い転げる。
「本当だって。セミがずっと鳴きつづけるだろ?それがイキナリ途絶えるのさ。何だ、どうした、と思って見てみると、地面に落ちてるの」
「暑くて死ぬの?」
「いや、暑さのあまり気絶するらしい」
「ミーンミーンミッ………パタッ、て?」
 小宮はセミのフリをして横に倒れて見せた。
「ミンミンじゃなくってジーって鳴くんだけどな」
 田舎特有の話題というのは結構盛り上がるものだ。
 この手の話は伊藤が仕事でも使う便利なネタである。
 客を楽しませて自分をアピールするのに役立つのだ。
「そういえば滝口くんも、今日の暑さをして『セミが木から落ちるほどの暑さ』と称して皆を笑わせてたけど、そういうのって本当にあるんだ」
「滝口が?」
 そういえば滝口にも軽口でこの話をして笑わせたことがある。
 何だ、滝口も同じ体験をしていたのか。
 自分を先輩だと気を遣って話を合わせていたんだなと伊藤は思った。
「そうそう、最近滝口くん変わったよね。それって伊藤くんの指導の賜物だね。この頃よく同期の子とも飲みに行ってるみたいだよ。『そうしろって伊藤先輩に言われました』ってさ、真面目な顔して言っておっかしいったら、もう。伊藤くん神さまみたいに崇め奉られてるんじゃないの?」
「まさか」
 滝口新人が自分をどう思っているのかなど あまり関心がない伊藤は、気の無い答えを返していた。
「だめだわ。ちっとも酔わない。暑いし…も、出ようよ」
 とうとう小宮が音を上げて飲み会はお開きになった。
「そうか、それじゃ支払いしてくるよ。俺払っとくから」
「あ、ご馳走様。それじゃ、ん〜、あたしも伊藤くんにご馳走しちゃおっかな」
「ん?」
 何の誘いかと伊藤は振り返って小宮を見た。
「このあと、あたしと、どう?」
 妖艶に笑って小宮が誘う。
「小宮」
「なんちゃって。ステディな彼女出来たんだっけっか」
 それに答えた伊藤は真顔で言った。
「実は浮気がバレてここ一週間させてもらってないんだ」
 声も聞いてない。
 相当怒っているらしく、伊藤が話しかけてもすいっと目線をはずされて無視されるのだ。
 それを言うと小宮は大袈裟にはやし立てた。
「わっ。カワイソ、伊藤くんに貞節を求めるのが間違ってるわよねぇ。でもさすがに伊藤くんが長年追っかけまわしてようやくゲットした彼女が怒れば反省して見せるのねぇ。一応他の人とはエッチしてないんだ」
「ああ、ここ一週間はね。だから溜まってて…」
 ここで伊藤は小声になる。
――――ちょっと俺、この前より、かなりデカイかも。それでもいい?
 小宮はこれに楽しそうに身を乗り出して囁いた。
「ふふ、ステキ。さすが伊藤くん、ノリが最高。期待しちゃう」





 伊藤が会計を済ますと、外で待っていた小宮に『早く、来てきて』と呼ばれる。
「見て、あれって今日子じゃない?伊藤くん、ほら、あそこ。今日子の隣にいるの滝口くんだわ」
 カップルで溢れ返る街中に、その二人はいた。
 すぐに人ごみに紛れて隠れてしまった二人組は、確かに同期の小坂井今日子と、新人滝口の姿だった。
「今日子ったら、今夜はデートだからってこっち断ったのよ。ってことはお相手は滝口くんかぁ。意外だね。この間まで伊藤くんを追っかけまわしてたのに…でも安心したでしょ。ちょっとしつこくてね、彼女。更衣室でなんかね、なんだかあなたと行くとこまで行くんだとか色々妄想取り混ぜて大変だったわよ」
「まぁな。自主的にに俺を嫌になってくれるように頑張ってたんだけど」
「ああ、『彼女』の話で牽制してたもんねぇ、あの伊藤くんがベタ惚れの彼女ってやつ。ほんでも”頑張って”エッチしてたらだめじゃん。あの子は粘着質だってあたしが忠告してたのにさぁ。ちゃんと相手見て遊ばなきゃ、あたしみたいな」
「ご忠告痛み入ります」
 伊藤は頭を下げた。
「でも遠くから見ると滝口くんと伊藤くんて似てるのねぇ。そう思わなかった?」
「そう?かな」
「うん、新人さんで入ってきたときは全然そう思わなかったけど、びっくりしちゃった。ここにあなたがいなかったら、伊藤くんが歩いていると思ったかも」
「おいおい、勘弁してくれよ。あんな風に見えるのか、俺」
「だって、滝口くんったら本当に変わったもん。でもこんなに伊藤くんと似てたとはなぁ」
 似てると言われた相手が自分より格下と思っていれば嬉しいと思う人間はいないだろう。
 伊藤もそうだった。
 話題を変えようと伊藤は小宮の小さい肩を抱き込んで黙らせる。
「おいで、こっちに行こう」
「あっ」
 一瞬で顔を紅潮させた小宮に屈み込む。
「他の男の話なんて、するなよ」
 クスクスと笑う小宮の身体は微妙な触れ合いで早くも熱くなっていた。
「そういう風に言われるのもいいものね。ちょっとキュンとした」
 共通の秘密を共有している者同士に通じるひそやかな笑いを浮かべ、二人は歩みを早めて夜の街に消えていった。








 昨夜の名残を念入りに落として出社していた伊藤だが、社内で恋人の姿を見かけるとさすがに良心が咎めるのか首筋がチクリとした。
 ――――バレたらますます機嫌を損ねるな…
 伊藤の良心など、所詮その程度のものだったが。
 だが、恋人はそんな伊藤に気がつかなかった。
 というより別件の伊藤の浮気が原因で、恋人は伊藤と冷戦中のつもりらしい。伊藤を視界に入れないように今日も逃げ回られてしまっていた。
 ―――――好きなようにするさ。
 脛に傷持つ身で恋人の我が侭には寛容な伊藤である。なにしろ我が侭はお互い様だ。
 何はともあれ小宮は口が固いので今回はバレないで済むだろう。
 恋人が先に自分に声をかけてくるのを伊藤は気長に待つことにした。
 そして意外にも、今回はそう待たずにその時が来たのだ。
 自分の名前を呼ばれたような気がして顔を上げると、恋人が自分の名前を叫びながら営業室へかけ込んでくるところだった。
「どうした?真っ青な顔して」
 伊藤は恋人に尋ねる。
 有藤は早口でまくし立てた。
「俺、今さ、すっごい慌てて車に乗り込んだの」
「ああ、顧客に電話で怒鳴られてたっけな、お前。いいのか。すぐ行かなくて」
 車のエンジンがかからないと有藤は説明を始める。
「それで、キーを外そうと思ったらロックされちゃってキーも取れないし。とりあえずそのままでお前呼んでさ、見てもらおうと車から降りたら つつつつつ〜って車が前に動くのよ。前に停まってる車にぶつかりそうになっちまいやがって」
 そりゃお前、ギアがドライブに入ってるんだよ。
 惨事の車と始末書が伊藤の頭をよぎる。
「ぶつかったのか!」
「…う、いや。その前に車に飛び乗ってブレーキ踏んだ」
「っ、来いよ。車見てやるから」
「いや、ちょっと待てって。最後まで聞けよ」
「まだあるのか…」
「まぁあれだ。慌ててドライブに入れてエンジンかけようとしたからかかんなかったんだな。パーキングでじゃないとだめなのな。怖かったよ〜もう〜」
「何を今更言ってるんだ」
 さすが宇宙人である。
「そうなんだよ。そこだよ。今更だろ?俺今までよくもそれを知らないで今日まで運転してきたよな」
「それで?」
「何だか俺今日さ、すごっく事故りそうな気がするわけ」
「はぁ」
「だからさ、運転して?」
「……」
 こういう所がわからない。
 今の今まで伊藤を無視しくさっていたのに、利用できると思うと掌を返すように声をかけてくるのか。
 こういう所が天然なのか、それとも計算しきってのことなのか。
 想いが成就した喜びはつかの間のことでしかなかった。
 一人で恋人のことを考えるときなど、有藤は自分をどう思っているのかと疑問に感じることある。
 もしかして自分は利用価値があるとしか思われていないんじゃないだろうか。
 ふっとそんな考えが浮かぶ。
 伊藤が黙ったままなので有藤は呆れられていると思ったらしい。
 なんとか引きうけてくれと訴えてきた。
「だって俺、怖いンだもん」
「…こういうのは練習しないと下手になる一方なんだぞ」
「練習前に事故ったらどうすんの。とりあえず今だけ運転して」
「…で、俺は車の中で待ってりゃいいのか」
「や、そういうわけにはいかないでしょう。車の中で待っているのがいるとこ見られたら『誠意が伝わらん』とか俺言われるよ」
「で?おれに一緒に頭を下げろと」
「うん。悪い、お願い」
 伊藤は心に隙間風が吹くのを感じた。
 要するに一人で頭を下げるのが嫌なんだな、お前は。











「や、今日は悪かったよ。まいったな、もう」
「別に俺がいなくてもよかったんじゃないか?」
「あ?」
「だから、俺がいなくても話進んだじゃないか」
「ああ、だから、運転して欲しかっただけだって」
「一緒に謝ってほしかったわけじゃないのか」
「ああ、あの社長ってばさ、電話ではかーーっとなってすごいんだけど、面と向かってだといつもこうなのよ。肩透かしっていうかさ。あれかな?俺の麗しい顔見ると文句も引っ込むのかな」
「……」
 思い過ごしだったのか。
 有藤にしても格別自分を利用するつもりはないのかもしれないな。
 伊藤は少しほっとした。
 有藤のマイペースっぷりに振り回されて疲れが溜まっているのかもしれない。
 そう思うと今度は有藤の美貌を見てニヤついていたオヤジの顔が思いだされる。
「って。何だよ!乱暴にブレーキかけんなよな!」
「特訓だな」
 胸がむかついてたまらず、伊藤はこのまま有藤を美味しくいただくことにした。
 伊藤にかかれば有藤ごとき、舌先三寸で丸め込むのはたやすい。
 それなのに振りまわされるのはなぜか自分ばかりだ。
 この理不尽さは我ながら情けないものがある
「えっ?特訓って運転のことか?」
「いつも俺がお前の運転するわけにいかないだろう」
「ああ。そりゃそうだ。でもなぁ、いつでも運転なんてできるんだし」
「本当か?俺がいない時は後輩を顎で使って運転させてるって話じゃないか」
「う…あれ?知ってた?」
「こういうのはな、やらないからますます腕が落ちるんだ」
 図星をさされて有藤は黙り込む。
「……」
「やらないからいつまでたっても下手なままなんだって」
「そ、そうかな、やっぱり」
 基本的に素直な男なのだ。有藤という男は。
「そうなの、案ずるより生むがやすしさ。んじゃ直帰扱いにしてきたしこのまま」
「えっ?直帰って、お前〜」
「部長にも言ってきたから」
 部長の覚えめでたい自分だからこそ出来る技ともいう。
「ってお前何時の間に。スバヤイってかどうしてそう用意周到なわけ」
「今更だな」
「あ、あれ?どしてこっちへ入るのさ。こっちって…おい、昼間からまずいって」
「出るとき夜なら問題ない」
「ええっ?」
「こっちもやっとかないとお前ますます下手んなるぞ」
「えっ?」
 こうした有藤の反応を感じている時は、自分は考えすぎなだけだと伊藤は思う。
「ブランクがあきすぎるとなぁ、腕が落ちるんだぞ」
「まじ?」
「ますます下手っくそになっても知らないぞ」
「まじまじっ?」
「こっちは三日に一度やっとかないと確実にカンを忘れるね。また最初みたいに痛い思いをしたいんならブランクをあけてもいいがな」
「…うう…」
「慣れるまで訓練あるのみ」
「…ううう…やっと痛いのなくなったとこなのに」
「ああ痛くないのか。なら今日は大丈夫だな」
「えっ、ナニが」
「もう痛いからできないって言われて止めたアレ、今日やってみような」
「はっ?」
「もう痛くないそうだし。すごいぞ。おれが奥の奥まで軟膏塗ってやった成果だな、喜べ。今日も俺がちゃんと塗ってやるからな」
「や、そうなのかな…まだやらないほうがいいと思うけど…」
「そうこうしてるうちコツを忘れるぞ」
「うっ」
「ますます痛くなること間違いないね」
「ううぅっ」
 
 だが、きっと後から思い返すと、またぞろ悩むのだろう、自分は。


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