被る −かぶる−











  2  

 そうして何度目かの伊藤の浮気については、今回も直接有藤から文句を言われることなく有耶無耶に終わった。
 伊藤は不幸なことに浮気に罪悪感を感じられない。
 表面は騒がしくともその内面はいつもどんなことに対しても宇宙人的に飄々としている有藤が、唯一泣くほど嫌がるのが伊藤の浮気癖だと知っていながらやめられない。
 それは多分、有藤の嫌がる顔が好きだからかもしれない。
 しかも、眉を寄せ困っている有藤というのも伊藤はとても好きだった。
 泣き出すのを堪えているようなその顔は、伊藤の身体の下で与えられる刺激に身をくねらせ苦悶に似た表情を見せる、あの一瞬を彷彿とさせる。
 有藤にそんな表情をさせているのが自分だと思うと、たまらない快美感が込み上げてくるのだ。
 伊藤を無視しながら内心の苦痛に唇を噛んでいた有藤の顔は、伊藤に静かな喜びを与えてくれる。それとはっきり自覚してのことではなかったが、伊藤にとって至福の一週間だった。
 そして伊藤が有藤から思われていると実感できるのが、有藤の苦痛を取り除けのるが自分しかいないと感じるその時だけだというのも、伊藤にとっての大きな不幸なのだろう。
 和解した後、打って変わって表情が明るくなる有藤を見て、いつもは自分も気分が爽快になるはずだった。
 しかし今回はなぜか何かが胸につかえてすっきりしない。
 この胸のモヤモヤは、何かの前兆なのだろうか。
 自分は何か見えない兆しを感じているのか。








 そう考えるのは理由があった。
 伊藤は大きなトラブルに巻き込まれる前に、見えない兆しを第六感のように感じることがあるのだ。
 この感覚を信じて何度も助けられてきた。
 しかしこのご時世で胸のむかつきの原因など―――――思い当たる節がありすぎる。
 第六感などなくても誰もが胃に不調を抱えている。
 何をしても順風満帆とは言いがたい世の中だ。
 一日過ごすうちに多少胃がチクチクしたことなど数え上げれば枚挙にいとま)がない。
 それでも何か見過ごしていることがあるんじゃないかとさらってみるべきなのだろう。
 過去そうしてみて救われたことが数回あった。
 うっかり見過ごしていた契約の不備を見つけだし、締結前に見なおさなかったらどうなっていたことかと胸を撫で下ろしたこともある。
 何かあるのかもしれない。
 そう思いつつ、日々の忙しさに追われて一日延ばしになってしまっていたのだった。
 そんなある日。
 

 伊藤は小宮に呼びとめられて給水所に引き入れられた。
「ちょっと、伊藤くん、・あなた直帰しておいてホテルに入っていったって、本当なの?」
 身体がどこも痙攣しなかったのが不思議なほどだ。
 不吉な前兆はこれだったのかと伊藤は覚悟をする。
「誰が言ってるんだ?」
 何気なく言えただろうか。
 伊藤はそう尋ねた。
「噂だけどね、皆言ってるよ。最後に入るのが本人の耳なんだと思ったほうがいいよ」
 有藤の名前も出ているのか、それを思うとさすがに毛の生えた伊藤の心臓も痛んだ。
 伊藤なら口先三寸で何とでも言い逃れられるが、果たして有藤はどうだろう。
「……その噂教えてくれるか?」
「うん。直帰した伊藤くんの車がつれ込み系ホテルに入っていくのを目撃したというのが一つ。それと、コトが終わって暑くなった社内の女の子がそこのホテルの窓を開けたら、偶然その前をウチの社内の人間が車で通りかかって、目と目が合ったっていうのが一つ。その女の子の名前は、今日子だとかそうじゃないとか色々言われてて、あとは…」
 予想もしなかった噂の内容を聞いて伊藤は拍子抜けした。
 鳩が豆鉄砲を食らったような伊藤の顔を見て小宮が笑う。
「何だそれは…」
 やっぱりこれって嘘だったのかと思わせるのに充分な伊藤の間抜け顔だった。
「あははは。最初の噂が出たときは、ああ、あなたが直帰して云々ってやつね、ちょっとありがちかもと思って信憑性が高かったんだけど、その後次々に出るわ出るわで、今や都市伝説並に進化しちゃってすごいことになってるわ。でも多分部長の耳にも入ってると思うから、何かの時に一言身の潔白を訴えておいたほうが身のためよ?」
 あたしからも更衣室で言っとくわ。今の伊藤くんの顔。しばらく笑えるもん。やっぱり噂は噂よね。
 小宮はそう言った。
 とりあえず伊藤は噂話を教えてくれた小宮の好意に礼を言う。
「言い難いこと言わせてすまなかったな。よかったら、今夜でもどうだ?」
 てっとり早く小宮を喜ばせるメニューはわかっていた。
 しかしいつもなら二つ返事の小宮が二の足を踏んでためらっている。
「ううん、ゴメン。実は今日はちょっと…さ、…まぁ、すぐバレるから言っちゃうけど、あたしさ、滝口くんと、今、まじめにつきあってんの」
 まさか断られるとは思わなかった伊藤だった。しかも相手の名前の意外さに思わず伊藤は聞き返していた。
「滝口って…だってあいつは小坂井と付き合ってたんじゃなかったのか?」
「ああ、それってあたしの勘違いだって。あたしの事を聞きだしたくって彼女を誘ったんだって。なんだかそこまで思われるのも悪くないなって思ってたんだけど、付き合ってみるとね、すっごくこう…いい意味で伊藤くんに似てるんだわ、これが。しかも、あたしは伊藤くんが二枚舌なの知ってるけど、その、伊藤くんから裏表を取って、表だけだったらこうだろうっていうのが滝口くんなのよ」
 理想の伊藤くんって感じかな。
 ちょっぴり好きだったから、伊藤くんのこと。
 小宮はそう照れくさそうに言った。
「今は滝口くんがとても好きなの。だから、誤解されるようなこと、したくないから。ただでさえあなたとの事疑ってるんだもん。あなたの本気の彼女があたしじゃないかって」
 女はわからないと伊藤は思った。
 自分に惚れていたというのも初耳なら、滝口がある意味伊藤以上に伊藤らしいという話にも驚いていた。
 伊藤に裏表があり、そしてもし表の顔のままだったらこうするだろう、ということをしてくれるという滝口という男は、一体どういう男なのだ。
 しかも滝口には最近少々気になっていたのだ。
 近頃伊藤が新規で飛び込む先に、何時の間にか滝口がちゃっかり入りこんでいるということが重なっていた。
 さすがにこれは気に触っていたが、伊藤はやりたいようにさせてきていた。
 結局それは伊藤あっての取引先なのだから。
 しかし、伊藤以上に伊藤だと聞いた今では話が違う。
 伊藤以上に伊藤。
 それは、取引先でもそうだとするならば、伊藤以上に伊藤の滝口と、オリジナルの伊藤は、どちらが取引先にとっての「伊藤」だろうか。










 給水所から戻ると机の上に置いたはずのファイルが見当たらなかった。 
 おかしい。確かに午前中はここにあったはずなのに。
 それでも記憶違いかと思い、伊藤は引き出しを上から順に開け閉めしていく。
「どうなさったんですか」
 通路を通りかかった事務の女性に声をかけられて伊藤は応えた。
「うん、浅野商事の青いファイル、ここに置いたつもりだったけど」
「ああ、それでしたらきっと滝口さんが持っていったんじゃないでしょうか。先ほど浅野商事さんへ向かう前に確か青いファイル見てたような気がしますけど」
「滝口が?」
「あ、はい。伊藤さんのご指示じゃなかったんですか?」
「いや、違う…わかった、ありがとう」
 滝口が?
 伊藤は腹立ちを覚えた。
 あれがなくては夕方の契約の締結で差し障るかもしれない。
 一体何を考えて持ち出したんだ―――――?
 断り無く勝手に持ち出すとは。
 外線の電話が鳴り始めた。
 伊藤の傍で心配そうに見ていた女性が手近の電話でそれを取る。
「はい、お電話ありがとうございます、社中央支店です。あ、滝口さん。あなた、伊藤さんのファイル持ち出し―――え?」
女史がチラリと伊藤のほうを見た。
「―――――ちょっと、それ本当なの?すごいじゃない。ええ、わかったわ。報告しておく。うん、うん、任せて――」
 興奮した様子で彼女は電話を切った。
「そういえば滝口と君は同期なんだっけ、杉山くん」
「は、はい、そうなんです。すいません、ファイルのこと聞かないでしまって…それがですね、伊藤さん、滝口くんったら浅野商事に新しい受注取りつけたんだそうです。すっごいですよね。もう、最近滝口くんすごいんだから。ちょっと部長さんへ報告してきますね」
 そのまま杉山は部長室へ向かっていく。
 伊藤はその後姿を腹立ち紛れに見送った。
 どういうことだ?
 浅野商事の案件は自分が進めて、今日の午後の契約の締結先はそれだったのだ。
 先方の社長と会うアポイントも取れていて、あとは承認をもらうだけの手はずだったのに。
「くそっ」
 伊藤は苛立ちのあまり、手にしたファイルを机の上に叩きつけていた。
 自分の成果になるはずの案件を横からさらわれたのか。
 そこへ至る地道な作業があってこそだというのに、結局最後に話を決める者が大きな評価を得るものだ。
 美味しいところだけ掠め取られたとは。
 真似します宣言をされて、自分の行動のあと追いをはじめた滝口を放置していた自分を伊藤は蹴飛ばしたくなった。









 かなりの時間が過ぎて、ようやく、顔をいくぶん紅潮させた滝口が営業室へ入ってきた。
 滝口の顔をみたら腹立ちが抑えられなかった。
 営業室には部長もいたのだが、頭に血が上った伊藤には滝口しか目に入らない。
「滝口、お前どういうつもりだ」
 伊藤は滝口のもとへ歩み寄っていた。
「伊藤さん、どうなさったんですか。そんな怖い顔をして」
 二心の無さそうな表情を向けられる。
 顔を合わせると自分にへりくだって見せるような態度をとる滝口なのだが、今の今までこれに騙されていた。
「腹立って当たり前だろう。今回の浅野商事の件は俺が――――」
「伊藤さん、社長さんに今朝連絡取らなかったそうですね」
「何だって?」
「電話してたらしいんですよ、社長さん。どうしても今日の夕方時間が取れないから連絡くれって。だけど伊藤さんから連絡が来ないって困っていらしたんで、僭越ながらぼくが出来ることならば承りますとお引き受けしたんです。あのまま放っておいたら社長さん短気だし、どうなるかわからなかったと思いますよ」
 いつのまにか部長が傍にいた。
「おお、そうだったのか。それは滝口機転が効いたな。伊藤、お前連絡を怠っちゃだめじゃないか」
 指摘されたら伊藤は黙っていない。
「いえ、そんな連絡わたしは受けていませんが」
 伊藤は営業室を見渡した。
 営業から戻っていないのが多く、そこで彼らを遠巻きに見ていたのは、内勤の女子ばかりだった。
「浅野商事さんからぼく宛の電話受けた人いますか」
 室内に伊藤の声が響き渡る。
 女子は互いに顔を見合わせて困惑の表情を見せていた。
「ま、まぁ、いいじゃないか、伊藤くん。そう事を荒立てんでも」
 部長がそう言ってきたが、伊藤は引くつもりがなかった。
「いえ、部長、これは大事なことです。電話の取次ぎを迅速にするということは基本です。それが疎かになっていては今後どんな禍根を生むかわかりません。そこはしっかりとどういう経緯だったのか知らないと―――――」
「連絡をとろうにも、伊藤さん昨日は直帰なさったじゃないですか。ずっと携帯の電源も落とされていたようですし」
 滝口が口をはさんでくる。
「浅野商事からの連絡を受け取ったのって、お前なのか」
「―――――え、ええ。ぼくです」
 しっかりと聞き耳を立てているらしい営業室内の女子達からざわめきが広がった。
「何時」
 伊藤は問いただした。
「あ、いえ、その何時だったかはちょっと思い出せなくて…」
 次第に滝口がしどろもどろになっていた。
「昨日じゃなかったのか」
「あ……」
 ハンカチを取り出して滝口は首筋をぬぐう。
 その動きは、やましいことがあって隠し事のある人特有のものに見えた。
 まさか、お前、その伝言俺にわざと伝えなかったのか、そう言おうとしたとき部長が再び会話に入ってきた。
「いいじゃないか、伊藤くん。実際滝口くんは今回の功労者なんだし」
 そしてこの部長の一言で話は終わった。
 さかんに滝口の背中を叩きよくやったと誉める。
 この部長は勘が鈍いらしい。
 それとも滝口の策略だと思うのは自分だけなのか。
「それより、こんな大事なことのある前日に直帰して情報収拾を怠るとはな、伊藤くん。感心しないな。大体君には直帰して悪い遊びをしたとかいう噂が立っているじゃないか。火の無いところに煙は立たないものだぞ。もう少し身辺をきれいにしたらどうだね」
 伊藤に全幅の信頼を寄せていたはずの部長がそんなことを言う。
「そんな、あんな噂を本気になさっているんですか、部長。噂は噂ですよ」
 すかさず滝口がそう伊藤をかばっていた。
 格下と思っていた後輩に取り成される。
 しかも、それはそっくりそのまま伊藤が今言おうとしていた台詞そのままだった。
 そういえば、よく伊藤が口にしていた十八番の冗談まで滝口が口にしているを聞いたことがある。
 その時も非常に居心地が悪いと思ったものだ。
 まるであるべき自分の居場所がなくなってしまったかのような……









 『滝口くんはね、伊藤くんならこうするだろうっていうのが、伊藤くん以上にそれを裏切らないの』









 小宮の言葉が脳裏に甦る。
 今の滝口は、伊藤のいい面だけを完璧にトレースした結果だというのだろうか。
 裏も表も当然ある不完全なオリジナルのほうが嘘っぱちに見える程、それは完全なものなのか。
 
 
 






 同じ反応をする人間は、同じ行動半径に二人もいらない。
 真似をされた行動と同じ行動をとるなどということは、伊藤のプライドが許さなかった。
 今滝口が伊藤のふりをして振舞っているあれは、伊藤にとっても素の自分ではない。
 営業用につけた仮面が自分の皮膚のようになっていただけだ。
 個性でもあり癖にまでなった今までの行動パターンを矯正するのはかなりのストレスだろうが、滝口の隣で今の滝口と同じような似たキャラクター性を晒すつもりはなかった。
 仕事用の別の仮面をつけて成功してみせる。
――――――――――ここで、ふと伊藤は気がついた。
 有藤は――――――――――――――?
 有藤にとって、本物の「伊藤」は、どっちなんだ――――――――――――――。
 それを知るのが伊藤は怖い。
 これほど怖いと思ったことは今まで経験したことがなかった。
 伊藤は無人の資料室へ向かい、気を落ち着かせようと馴染みの遊び友達の携帯を鳴らした。
 有藤を何度か泣かせた浮気の相手でもある。
 深い意味はなく、ただ今は滝口に関係のない人間の声を聞きたかっただけだった。
 何度かのコールの後、聞きなれた甘い声がした。



――――――伊藤くん?どうしたの?


「ああ、ちょっと声が聞きたくなって」


――――――そんなこと言うなんて、伊藤くんらしくないなぁ


「俺らしくないって?」
 彼女からまで「伊藤らしさ」などと言われるとは。



 いや、まさか、こいつも――――――――――――?





――――――わたしね、あなたの後輩って人と今お付き合いしてるの。だから悪いけど、もう電話してこないでくれる?彼ったら、あなたとのことすっごく気にしちゃって、いつも疑うのよ。





 伊藤は唐突に携帯を切っていた。
 嫌な汗が背中を伝う。
 どういうことだ、これは。
 どうして彼女のことまで滝口は掴んでいるんだ。












 ストーカー











 その言葉が頭に浮かぶ。
 最近、封書の封が微妙に汚れているものが目立っていた。
 あれは、開封されてもう一度封されたものだったのだろうか。
 だとすれば、自宅の電話の電波がおかしいのも、喋った自分の声が時間差で回線の向こうで聞えるような、あの感じは――――――





 盗聴されていた?





 どうして、なぜ、そこまでして。





 資料室で呆然と立ちすくむ伊藤の背後から足音が聞えた。
「なぜ」
 伊藤は後ろから近寄ってきた滝口にそう尋ねる。
「なぜそんなに俺そっくりに振舞うんだ」
 滝口の微笑はまるで鏡をみるように自分のものそのものだった。
「しかも、俺から契約を横取りしやがって」
 滝口は一瞬無表情になる。
「だって、あの社長は、伊藤さんに無理を言っていたじゃないですか」
 そういえば、滝口の着衣が微妙に乱れているのを伊藤は見て取った。
「伊藤さんが、あんな脂ぎった奴に触れるのは許せない。大丈夫です。ちゃんとぼくが伊藤さんの代わりをしましたから――――――――びっくりなさってますね?だって、ぼく見ていましたから。ぼくを廊下に出した後、伊藤さんがあの人に強請られて嫌そうにキスしてあげてる所。そりゃ嫌ですよねぇ。きれいな女の人ばっかり抱いてる伊藤さんが、男だなんて、それを、あんな、あんな図々しい奴は…」
 どういうことなんだ。こいつは。
 伊藤はそれでも無言のままだ。
 滝口は悲しげな双眸を伊藤におくってくる。
「だって、こうでもしないと、伊藤さんはぼくを見てくれない。それに、伊藤さんはステキだから。ぼくなんか、いなくなればいいとずっと思ってきたし。伊藤さんに見てももらえないぼくなんか価値ないですからね。でも、ぼくが伊藤さんになれればきっとぼくもステキになれるかなって思ったんです。ねぇ伊藤さん、今のぼくってどうですか?伊藤さんをお手本にさせてもらったんですけど」
 伊藤さんの秘密、一つ一つ知っていくのは楽しかったですよ。
 だから、ぼくは今完璧でしょう?あなたと寝ていた相手も皆認めてくれましたよ。
 今のぼくは、伊藤さん以上に伊藤さんだって。








 有藤は?
 有藤もそうなのか。
 自分より滝口のほうが伊藤らしいと――――――――――?








 伊藤は滝口の脇を擦りぬけて駆け出していた。
 この時間なら多分きっとあいつは守衛室で息抜きしているはずだ。
 そしてやはりそこで後輩を周囲に付き従えている美貌の男を見つけることができた。
 伊藤は強引に倉庫へ有藤を誘う。
 そして蒸せ返るような紙の臭いのたち込める薄暗い倉庫で、伊藤は決死の覚悟で切り出した。
「有藤、お前滝口から何かされてたり…しないか?」
 もし、有藤まで滝口に魅せられてしまっていたら―。
 きっと有藤にとって理想の伊藤など演じるのは簡単なはずだ。
 浮気さえしなければいいのだから。
 そして、相手が有藤ならば、隠しさえすれば決してばれたりしないのだ。
 滝口にそれをされてしまっていたら―。
 伊藤以上に伊藤なのは滝口のほうだと有藤が思っていたら―。
 伊藤は有藤のどんな些細な表情も見逃すまいと見ていた。
 果たして、有藤は逡巡してからようやく語りはじめた。
「お前の後輩だからさぁ、俺我慢してたんだぜ?」
 伊藤の心拍数が跳ねあがる。
 やはり、そうなのか。
 だが、我慢ということは、まだ有藤の心は伊藤を向いてくれているのか――――――――?
「あいつが近寄ってくると、前田や橋本が追い払ってくれるよ。まったく、いい加減にしてほしいって」







 有藤は伊藤の表情を見て首をかしげた。
「あれ?お前、知ってるんじゃなかったの?それの事言ってるのかと思った。ま、いいや。ぶっちゃけ言っちゃうけどさ、あいつ、後輩の癖して俺を何だと思ってるんだっての。お前、後輩をちゃんと指導しろよ。ったく。何かっつうと俺を小バカにしやがって。言っておくけど俺の取引先で滝口の評判はゲジゲジよりも低いからな。俺の代わりにすっげ怒ってくれてる役員もいて、あんなのがウチの会社の上に行くようならガツンと成敗してやるって息巻いているのもいるから、そうなる前にお前どうにかしろよ、って、何だよおまえ、イキナリそんな笑うなよ。気色悪い奴だなぁ…夜叉みたいな顔して詰め寄ってきて、今度はバカ笑いかよ。ったくよぅ」






 ああ、そうだった。
 伊藤は人前で有藤を誉めたことがない。
 見下したような態度を取ることが多かった。
 それは伊藤なりの屈折した愛情表現なのだが、滝口はしょせん伊藤の表面をなぞってトレースしたに過ぎない。だから、そんなものに、伊藤の大事なものを理解できるはずがないのだ。
 自分以上に自分の他人に自分の居場所を奪われる悪夢は、霧が晴れるようになくなっていく。
 なにしろ、伊藤の周辺を魅了していった伊藤を演じる滝口は、伊藤に囚われている。
 ならば、とことん囚われていていただこうではないか。
 伊藤は、とてもではないが爽やか好青年が見せるものではない、性質の悪い微笑を口元に浮かべた。
 それは意識して外へ出さないようにしてきた、素の伊藤の笑みだった。
 それを見て有藤が呟く。
「ああ、その顔、俺、一番好きだぜ。伊藤らしくってさ」
 ぞくっとくるんだ。
 「伊藤、あんまりそういうとこ見せようとしないだろ、ひさしぶりだよな、すっごくイい。そっちのほうがお前らしくていいのに、なんでお前いつも胡散臭い顔してんの?ま、あれはあれで見てんの面白いから好きだけどさ…それに、こういうのもいいのかもな。たまに見るから」
 だからこんなに暑いのに背筋が寒くなる。しびれるよ。
 













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