チョコレート
俺はいつから透明人間になったのか。
待てど暮せど頼んだ料理はこなかった。
会社で女の子が「絶対おいしいから」と騒ぐので休日にわざわざ出てきたというのに、一時間半の待ち通しだ。見切りをつけて席を立って出て行くことも考えたが、そうなると今まで待った一時間半はまったくの無駄になる。それは嫌だ。休日の一時間半はランチの値段より価値があると思いたい。すきっ腹に負けないように、涼しい顔を取り繕いつつ俺は窓の外の風景を睨んだ。すると、この店から出て行くOL風の女性の姿が見えた。
それは俺のすぐ後に店に入ってきた娘だった。あの顔は覚えている。彼女の席に皿が運ばれていったのを見たときは、思わず睨んでしまったのだから。絶対に俺のほうが先に注文していたはずだ。ムカムカっときたのがトリガーになって、昨日の昼、連れのほうの肉が俺より1枚多かったときの怒りまで強烈に思い出してしまい、それが順番を越された怒りと一緒くたになって燃えさかった。
これはウィエトレスに一言云ってやらねば。
そして口を開きかけ、…いや、待て、と俺は自分にブレーキをかけたのだ。『肉、少ないぞ事件』は社内食堂だから騒げたというのもある。そう思うと冷水を浴びた如く我に返った。
昨日は俺が怒りを爆発させた後に問題の肉を同僚からせしめて一件落着――のはずだったのだ。だが、その続きがあった。食堂のおばちゃんが出てきて無言で俺の皿に肉を落としたという続きが。それもおばちゃんときたら、ふんぞり返って、ふんっ、てな感じで。
あの時は食堂中の衆目を集めてさすがに恥ずかしかった。さらに空腹がおさまってしまうと恥ずかしさがますます増殖し積み重なった。俺は腹が減ると非常に沸点が低くなってしまうらしい。自制心が簡単に吹っ飛ぶのだ。そして必ず後から後悔することになる。
そこまで至らなくても機嫌は悪くなる。俺は「腹減ってると理不尽に怒る」のだそうだ。そう同僚から言われている。だから、空腹でも今回は我慢、と自分に言い聞かせたのだ。いつも失敗しているのだからと俺はぐっと飲み込んだのだった。
――そうしてイイ子で待っていたというのに、俺より後から来て先に帰っていくOLの姿をこうして見送っている。俺の前にはまだ何一つ運ばれてきていないというのに。
通路を行き交うウェイトレスが別のテーブルへ盆を運んでいくのを俺は横目で睨んだ。
これぐらいなら許されてもいいだろう。
いや、待てよ。もしかしたら、この店は、来る前に電話で注文しておかなきゃならなかったとか…。
先に食券買わなきゃならなかったとか?そんなまさか。
頼んだのが面倒な料理だったので作るのに時間がかかっている…そうでなければ、やはり、ウェイトレス達には俺が見えてないのだ。
やはり俺は透明人間なのか。
待たされた挙句注文が入ってなかったという事は何度か経験している。一度もそんな目にあったことのない奴だっているだろうに。今回のように忙しい店に入ったときほど忘れられる率が高くなるということは、俺の存在感が薄いから埋没してしまうということだろう。俺はそういう運命の星の下に生まれてきてしまったのだ。
しかし、例えそうだとしても、俺のテーブルの水が空であることに、一人くらい気づいてもいいと思うのだが、ウェイトレス。
――――などと望むのが無理な注文というやつか。プロとして仕事を進めただけで職人とか言われて特別視される世の中のことである。
しかし、透明人間にさせられた何度かの経験からすると、ここまで待たせてオーダーミスだったら、『申し訳ないので料金はいただけません』となるかもしれない。もしかしたら、だが。
イライラと待っていたのが一食浮く可能性を考えた途端苛立ちが消えた。
昼に千五百円の大出費を覚悟していたのだが、ロハになるのだとすれば悪くない。これは座っているだけで旨い飯付き千五百円を稼ぐのと同じじゃなかろうか。
時給にすると約725円。休日のアルバイトだな。
しかし、こんなに待っていられるのも休日ならではだろう。もし出社中ならとっくに席を立って隣のマクドに直行していた。幸か不幸か今日の休みは突然言い渡されてのことなので何の予定もなくまっさらなわけだし、有意義な休日になったではないか。
今日の休みは昨日いきなり上司から強要された、ただただ金土日の三連休というB休の消化のためだけの休みである。暇なにっぱち(2月8月)に休日を消化させておこうという腹なのだろうが、もう少しこちらの意向というのも聞いてもらいたいものだ。でなければ、せめてもう少し早く言ってもらえれば――いや、職があるだけ幸せなのだ。こんなことで思い煩うのは贅沢極まりない。とわかってはいても、俺などいなくてもいいと思われているからこういう扱いをされるんだろうか…とも思う。
転職、しようかな…。
そこまで考えて俺は頭を振った。どうも暗い方向に考えが進んでいけない。
それもこれも、腹が減っているのが悪いのだ。
などと考えていると、俺の横を甘い臭いが通っていった。
みっともなく俺の視線も一緒に動いてしまう。
それはチョコレートケーキだった。
チョコレートを見て思い出した。そういえば今日は全国的にバレンタインだ。
チョコレートなんて何年貰ってないだろう。俺はわびしいことを考えてしまった。
どうせ出社していてもチョコをもらう可能性はゼロだ。バレンタインを自粛するよう全社規模で禁止されている。以前は社内便でチョコをやりとりするのも慣例として認められていたのだが、今や「経費を使って浮かれ騒ぐのはまかりならん」というわけだ。こんなところにも不景気の影響を受けて、潤いがないことこの上ない。義理チョコの風習が盛んだった俺の入社当時が懐かしい。小耳に挟んだところによると、特定の支店宛てに社内便がパンク寸前になるほどの半端じゃない数のチョコが届きまくって総務が怒り爆発、バレンタイン禁となった――という眉唾ものの笑い話があるそうだが、アホらしい。
外回り先でなら、もしかしたら貰えたかもしれないのだが休みではしようがない。去年の今日も当日に突然の大阪出張になって大変な思いをさせらたし、俺にとってバレンタインは厄日なのかもしれない。
気がきいて、出来れば料理の上手な、そんな彼女がいたら。仕事以外に何か大切なものが欲しいのだ。それに彼女がいれば休日にこんなところで透明人間にさせられずにすむだろう。などと思っても、早、彼女いない暦数年である。別に俺の好みが煩いわけではない。付き合う相手に器量など求めたこともないのだが、しかしなぜかたまに寄って来てくれるのは、場の空気が全く読めないどうしようもない厚化粧ばかりなのだ。気配り目配りの利く俺の好みの楚々とした娘のほうでは俺など眼中にないらしい。希望と現実のアンマッチングだ。しかも化粧が濃ければ濃いほど婉曲に断っても日本語が通じなかったりして、そういう時にもやはり俺は透明人間かと思うのだった。俺を通り越してこいつは俺の何を見ているのかと。
そんなことを考えているうちに空腹はいや増してくる。
それでもまだ、俺の席に皿が運ばれて来る気配はなかった。
――――これは、俺はやっぱり透明なのか。
ここにいるのに、誰にも見えてないのだろうか。
こんなに人が大勢いるというのに、俺を見ている人間は一人もいないのか。
俺は椅子に背中を預けて脱力した。
腹、減ったのだが。
「ね、やっぱりステキよねぇ」
「さっきからずっと外見ているし」
「そうそう、あれはきっと、誰かを待ってるのよ」
「羨ましい~、あたしだったら絶対あんなに待たせたりしないのに。それにしてあの人をこんなに待たせてる人ってどういう人かしら」
「いつもすっごいきれいな人連れてるものね」
「本人があれじゃぁ、ちょっとやそっとの顔じゃ声もかけられないって」
「そうそう、それにかなり気難しいらしいわよ」
「それ知ってる。やたら仕事には細かくて、ちょっとでも出来なかったりすると、すっごいキツいこと言われるって。彼の会社の女子社員がくどいていったもの」
「あら、あの顔なら何でも許せちゃうんじゃない」
「そうよねぇ、その娘も言ってたわ。何か知らないけどがっかりさせたくない、って思っちゃうんだって。おかげで馬車馬みたいに働かされてるって」
「あ、それ、わかるなぁ。そういう雰囲気あるよね」
「それに、あの顔だと、慣れるまで正面から見るの、勇気がいりそうだね」
「そういえば、さっき、わたし、じっ、と見つめられちゃった。もう、ドキドキものよ」
「あら、わたしも。料理運んであの席の傍通ったとき、すっごい視線が熱いの」
「ええ?勘違いでしょう、そんなはずないってば」
ウェイトレスが待機場所に固まって話に花を咲かせていた。
樋口は低い声でそれを一喝する。
「川口、チーフの君がいつまでも奥にいないように。他のみんなもそれぞれ担当のテーブルの様子を見てきなさい。店の人間が内輪で話し込んでいるんじゃない」
楽しげに顔を寄せていたウェイトレスたちはオーナーシェフの一声で背筋を伸ばした。
蜘蛛の子を散らすように店に出て行く彼女たちの様子を見ながら、ますます目が行き届かなくなってきたなと樋口は感じていた。特にウェイトレスたちにはもっと笑顔できびきびと働いてもらいたいのだが、厨房で料理と格闘しながら彼女たちの監督をするのは難しかった。かといって料理から手を抜くわけにはいかない。
開店以来、樋口の店を支持して支えてくれてきたのはこの近辺のオフィスで働くOLたちの存在だ。食べたいものしか食べずにどうしても栄養の偏りがちなOLたちのために、できるだけ栄養のバランスがとれた料理を提供したいとはじめた店である。しかも旨い料理を出すにしても、自分の店ではせっかく来てくれる彼女たちの昼の休み時間を待ち時間で潰させたくないと奮闘してきたのだった。
そうして試行錯誤を繰り返してやってきたのが支持を得たのだろう。口コミが口コミを呼んで、なんとか鬼のように忙しいランチの厨房を過ごさせてもらえるまでに育ててもらった。ここまでになれたのも要は料理の質だと自負している。これから手を抜くわけにも目を離すわけにもいかない。
一人ではじめた頃が懐かしかった。店も小さくて売上もどん底で何もかもが苦しかったが、それでも全て自分の思うとおりにできた。今はそれなりに大きくなって楽になった分、今度は目が行き届かなくなっている。信頼のおけるマネージャーを雇わなければいけない時期にきたのかもしれない。しかしそうとわかってはいても、捜してすぐに見つかるものでもないしと、捜す前から樋口の腰は重いのだった。出きる人間というなら自分より年上を雇わなければいけないかもしれない。そうなれば低い賃金ではだめだろうし、そういう人間は扱いも難しいだろう。人を遣うというのは結局悩みが尽きないと樋口は溜息をついた。有能なら有能で悩みがあり、また、無能なら無能ぶりで苛立ち悩まされるというわけだ。
樋口の理想の店にはほど遠いレベルのウェイトレスたちの仕事ぶりを頭の中で減点しながら見る。
すると、窓際の席の男性が目に留まった。
彼だろうか。彼女たちが騒いでいたのは。
あれでは若い子が騒ぎたくなるのもしかたがない、と樋口も納得する。しかし、だからといって仕事に対して甘い考えなのはいただけないが。
しかし樋口は客の顔の良し悪しに関心はなく、すぐにその客のテーブルの上に視線を落として不手際がないかと点検していた。そうして見つけたのだ。そこにあってはならないものを。その客のテーブルの上にあったのはオーダー票の控えだった。
だが、今、厨房に入っているオーダーはない。
ということは、注文が厨房まで届いていないということになる。
一体彼はどれだけ待っているんだ?
意味もなく客を待たせることは自分の店では絶対にしないとやってきて、これだ。樋口は目線一つでチーフを呼び戻した。
「川口、十四番テーブルのオーダーはどうなっている。厨房に十四番のオーダーは来てないぞ」
彼女は樋口の静かな激昂を目にしてびくりとしたようだ。
「あ…え?あら…本当だ、伝票、どこだろ…」
「あの客はずっと待ってるんじゃないか。いつからだ。いつ頃からいるんだ?」
「あ、…あの…ずっとあの席にいたので…ランチがはじまってすぐぐらいから、だと…思います」
――それではゆうに1時間は軽く超えているではないか。騒ぐ時間があるのなら、どうしてそんな大切なことに気づかないんだ。
料理は可能な限り待たせずに出すのを徹底して、厨房はそれに応えてくれている。その厨房のあの騒ぎを見ているだろうに、ウェイトレスのほうにはその意思が伝わらないのが歯がゆかった。これでは糠に釘を打つのと同じだ。
とにかく客からクレームは出ていない。ということは、樋口の料理を食べる意思が残って待っているということだ。これは汚点を挽回する料理を出すしかないだろう。樋口は急ぎ厨房に戻っていった。
腹減ったなぁと黄昏る。
こんなに時間かかるなんてやっぱりおかしいと思うのだが、ここまで待っていて「注文まだか」と聞くのも具合が悪いような気がして言えない。
耳鳴りまでするようだ。
「お客様」
耳鳴りは男の声のようにも聞える。ウェイトレスは可愛い女の子ばっかりだったぞ。腹が減りすぎて幻聴だろうか。
「恐れ入ります、お客様。大変お待たせ致しました」
目の前に湯気の立った食べ物が現れた。だが戸惑ってしまって動けない。血糖値が下がりすぎて頭が働かないのだ。
「ご注文はこちらでしたが…間違っておりますか?」
俺はようやく自分の注文した料理がきたのだと理解した。あまり待ちすぎて、一瞬理解不能だったのだ。
「あなたがこちらのシェフ、ですか」
「はい、こちらの不手際で大変お待たせして、申し訳ありませんでした。今日はこちらはサービスにさせていただきますので。どうぞ、暖かいうちにお召し上がりください」
一礼してシェフは下がっていく。
おお。
無料で味わうランチ。
一口味わって俺は動きを止めた。
旨い。
その後は、しばし息をするのを忘れて夢中でガツガツと食べる。
たちまち皿は空になった。
待つのは長かったが、食べる時間など儚いものだ。
舐めたような、きれいな食べっぷりの空の皿だけが目の前に残る。
俺は名残惜しげに空になった皿を眺めていた。
あんまり俺が眺めるので、ウェイトレスも気を遣ってか、皿を下げに来ない。
下げられるとゆっくりできないので、しばらく物欲しそうに眺めていることにする。
そんなことをしていると、あのシェフが再びやってきたのがわかった。
そして俺の皿をさげてしまった。
あ、俺の。
しかし、すぐに別の皿を手に戻ってきたのだ。
は?これは?
「喜んでいただけたようで嬉しくなりまして。こちらもよかったらご試食ください」
小皿に添えられたコーヒーの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「そんな、そこまでしていただかなくても・・・これ、注文してないですから。さっきので満足です。すごく旨かったですよ」
「お褒めいただきありがとうございます。しかしこれもぜひ召しあがっていただきたいのです。わたしの気持ちですので」
シェフの気持ち。
俺はテーブルに置かれた皿をじっと見た。
これが彼の気持ち。
俺はそれを睨んで唸る。
気配りできて、できれば料理の上手な、そんな彼女が欲しいと思っていた。
仕事以外にも大切にできる何か、可愛い彼女、と思っていたが…。
―――男でも、いいかも。
一目出合ったその日から、恋の花咲くときもある。
俺相手に花を咲かせる男が現れようとは予想だにしなかったが。
シェフの気持ちという生チョコレートを感慨深く見てから、俺は傍に立つシェフの顔を下から仰ぎ見た。
「…あなたのお気持ち、美味しくいただかせていただきます」
転職も、いいかも。